2013/07/11

鉄砲で獣害を防いだ江戸時代

歴史を学び直す必要性を痛感!

中世の農村が獣害に苦しめられていたことは文献などからすでに知っていたが、読み進めている宮本常一著作集の獣害への記述から、百姓と鉄砲に関連している2冊を読んでみた。

鉄砲は種子島に伝来以来、農作物を食い荒らす獣害を最も効果的に防除する武器として農山村に普及している。

私達の世代が学校で教えられた「刀狩り」と違い、歴史の事実は、武器を使って人を殺すことは抑制されたが、農山村には武器が豊富に残された。

そして江戸時代に入り人口が増加するなかで、新たに農地を開拓して生産をあげるためには、農作物に害をなすイノシシ、シカ、サルに対して徹底した防除が必要だったが、鉄砲がなければ農作物は守れなかった。

1687年、信濃の松本藩の藩所有の鉄砲は200挺あったが、村々の鉄砲は1000挺を超えていた。同じように、仙台藩の村々には3984挺、尾張藩の村々には3080挺、紀州藩の村々には8013挺、長州藩の村々には4158挺の鉄砲があり、害獣との日毎の戦いを強いられていた椎葉村の村々では955軒の戸数に586挺もの鉄砲があった。

将軍綱吉により「生類憐れみの令」が出されると、鉄砲改めが全国に広まり、獣害のひどい地域でも脅しのために空砲を撃つことしか許されなくなる。

しかし、空砲の威嚇では効果がなかっただけでなく、全く殺されなくなったことから急激に繁殖して増加したため年々農作物への獣害が深刻になり、20年間にわたって農山村を悩まし続けることになる。

農作物への被害が深刻化認め、1709年に実弾の使用が許可されるが、その後も鉄砲への規制と獣害悪化による緩和が繰り返されている。

鉄砲に強い規制がかからないように、百姓は鉄砲を武器としてではなく、獣害防除のための農具としてのみ扱っている。知られている百姓一揆1430件の内、武器が持ちだされたのは15件で、しかもその内の14件が徳川幕府最後の激動の50年間に集中している。

そして、マッカーサーによる民間の武器没収まで、鉄砲は有害鳥獣の防除に活躍しており、武器没収時に384,211挺の猟銃が没収されている。

鉄砲は、種子島への伝来以降、日本の農山村を獣害から守ったといっても過言ではないように思うが、理解されてはいないようだ。

そして、今歴史は繰り返されている。

1970年代に40万人いた(猟銃を撃つことができる)第1種狩猟免許者が年々減少していたところへ、銃への規制強化が拍車をかけ8万人まで減ってしまったが、猟師の減少に反比例するように獣害は増え、推定生息数も増加している。

歴史を見る限り、獣害を減らすためには、根本的に生息数を減らす以外に答えはないと思う。
(オオカミで獣害対策をいっている人もいるようだが、オオカミが絶滅する明治期以前においても、日本の農山村が獣害に苦しんでいた事実から考えると効果は少ないように思う。)