2011/12/08

日本人の老人観


 民俗学者 宮本常一が監修した「貧しき人々のむれ」を読むと、近代の貧しく働かなければ食うことが出来なかった社会においては、働けなくなった老人は一般にはあまり大切にされていなかったようです。(西日本においては、古くから家格を重んずる風習のほかに老齢の尊ばれる気風があったが、一般の風としてはゆきわたってはいなかったようです。)

 その中の記述をいくつか紹介すると、「年をとってあとを見てくれるもののない老人たちは、土地によってはさいごまで生きぬくということはほとんどなかったようである。」、「おそらく隠居そのものは、老人をそこへ移すことによって、死穢が主家へ及ばないようにするためにつくられたものではないかと思われる節が多い。」、「鈴木牧之の『秋山紀行』を読むと、幕末のころ越後南部の山間では、老人は土間の入り口の上に小さい部屋をつくってそこにおり、鶏が塒についているようであったといっている。」などの記述があり、有名な「遠野物語」でも、老人が60をすぎるとデンデラ野に捨てられたことを語り伝えています。

 また、佐久総合病院の若月俊一先生の記録においても、昭和20年代農村の中風などを患った人々の陰惨な小部屋の悲しい病床について触れられています。

 寝たきり老人のいないヨーロッパに書きましたが、450年ほど昔のスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルは、手紙に日本の表の世界・良い面のみを書いていますが、修道士のフェルナンデスは、「海辺に子をたずさえゆきて石をばその上に置き、潮のきたりてこれを持ち去るにまかせるを常とす・・・・・食物を与うあたわざるものを育つることは不可といえり」と手紙に書いており、貧しさのなかで生きるのは我が身のことだけで精一杯だったことを伝えています。(貧しさのため、口減らし、間引きなど、生まれたばかりの子供を殺すこともたいへん多く、下級武士などでもおこなわれていたようです。)

 子どもが親の面倒をみるのが当たり前ともいわれていますが、歴史を見る限りは、豊かな生活をしていた一部の階層においてのみ成り立っていただけで、明治までは、女性は過酷な生活のため長生きが出来ず、男性のほうが平均寿命は長く、そもそも日本人の平均寿命が短く、老人になれない人のほうが圧倒的に多かったのが事実です。

 働かなければ食えなかった、働かないものまで食わすことができなかった時代が長かったため、日本人にはその考えが染み込んでいるのではないかと思います。国会議事録にもこの見方に沿った発言が取り上げられています。


 以下、国会議事録から引用・・・・・

 第104回国会 大蔵委員会 第7号昭和六十一年三月六日(木曜日)

 「二十一世紀は灰色の世界、なぜならば、働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって、稼ぐことのできない人が、税金を使う話をする資格がないの、最初から」、こう言ったわけであります。渡辺通産大臣は、それ以外にも、八三年の十一月二十四日には、「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」、こう言っておられます。こういう効率論であります。

 ・・・・・引用終わり

 昭和61年には、こんな発言が許されたんだと思ってびっくりしましたが、ここには社会福祉の考えは微塵もありません。こんな考えの人が派閥の代表となり大臣をしていたんですから、社会福祉が進まなかったのも理解できます。

 日本の人口変化を振り返ってみると、大正時代の1920年には、65歳以上の高齢者人口が294万人だったのが、2010年には10倍に増加しています。

 人口の総数と比率を年代別に3分類した国立社会保障・人口問題研究所のデータによるグラフです。



































 今後、まだまだ高齢化は進みます。平均寿命が延び、誰もが老人になる時代となったなかで、日本人の老人観を見つめなおすことや、過去の歴史を振り返ることが必要ではないかと最近思いはじめています。