一揆の歴史は古く、農民騒動の記録は1146年からあるようですが、一揆といえば「武士の圧政に対する農民の蜂起」を考えてしまいますが、実態は多様です。
中世農民は領主の非法に対する抵抗として、逃散を行う「去留の自由」を有していました。悪い領主のもとを立ち去って、より良い領主のもとに赴く権利があり、1643年の幕府法令においても、「地頭代官の仕置き悪く候て、百姓堪忍なりがたしと存じ候はば、年貢を皆済いたし、そのうえは、近郷なりとも居住つかまつるべし、未進これなく候はば、地頭代官かまいあるまじき事」とされていました。しかし、検地の施行や村請負の確立などとともに、徒党・強訴・逃散に対して厳重極まりない取り締まりがおこなわれるようになります。
1428年には、借金に苦しむ農民が借金の破棄を求めた徳政一揆が各地に広がります。この時代には貨幣経済が浸透していますが、高利貸しのみの金融システムのため、実力行使による借金証文の破棄だけでなく徳政令の発布を求めており、その後も徳政一揆は続発します。
生産が縮小し、経済が停滞・後退した時代のしわ寄せは弱者に偏り、農村は困窮しています。三大飢饉においても、農村から多くの餓死者を出していますが、一揆や打ちこわしがいたるところで起こっています。
成熟社会を迎え経済成長は必要ないという意見を時々耳にしますが、今の日本は成熟社会というよりも、制度疲労をおこした硬直化社会でありながら、過去の時代に比べて格段の豊かさとゆとりがあり、貧しい時代を忘れているからこそ経済成長が必要ないといえるのであって、安定した社会・幸福度の高い社会の実現には一定の経済成長が必要だと思います。