研修会への行き帰りに2冊の本を読み終えました。
「コミュニティを問い直す」では、日本人の人間関係の形成について、荻生徂徠や和辻哲郎などを引用しながら歴史的経緯にも触れています。また、都市計画と福祉国家についての視座なども一定参考になりました。
日本のコミュニティの形成は内発的なものでなく、村社会の人間関係の延長であり、だからこそ、地方から都市への人口集中がおこるなかで、都市のなかに地方の人間関係が入って行き、『「ウチ―ソト」を明確に区分し、集団の内部では過剰な気遣いが求められる反面、集団を一歩離れると何のつながりや“救いの手”もないような関係性のありようが、かえって人々の孤立や拘束感・不安を強め、また様々な“生きづらさ”の源になっている。(38~39ページ)』という視座は一定理解できますが、狭くとらえすぎていて一面的ではないかと思います。
「孤独なボウリング」、「逝きし世の面影」、「日本奥地紀行」、「単一民族神話の起源」といった本などを読むまでは、私も狭く考えていました。その方が都合の悪い事は「特異なこと」として無視するか切り捨てすればすむので、ある意味楽でもあったのですが、それでは現実を見誤り、間違いを繰り返していくことになるだけだと思っています。
「地域の力」は、京丹後市の経済が全体的に活気を失っているなかで、活性化へのヒントを求めて読みましたが、読み終わって考えるなかで、先日読んだ「傲慢な援助」を思い返しました。
先進国は、開発途上国などの貧困国に対して、莫大な援助をしてきましたが、皮肉なことに、現実は経済成長に成功してきた国は、それほど援助を受け入れていない国であり、積極的に援助を受け入れ続けている国においては、本当に援助が必要としている人のもとまで届くのはわずかな部分でしかないのが実態でした。
この本のなかに「小崗の奇跡」という話があります。
安寧省の小崗という小村で、1978年に20軒の農家が飢えに絶望し秘密集会を開いています。共産党が全土に導入した、全員が耕作に共同責任を持ち、収穫を平等に分配する共同体システムは効果的に機能せず、食糧生産は破たんに向かっていました。
一生懸命働いたかどうかに関わらず、コメが平等に分配されるため、結果としてだれもが一生懸命働かなくなっていました。
小崗の村人は、土地を分けて個人が耕作し、収穫は個人のものとすることで合意に達しました。村人は、共産党当局を恐れて秘密にしていましたが、コメの生産が飛躍的に伸びたため、近隣の村がその秘訣を知りたがり、真似をして個人耕作を取り入れる村もできたため、秘密の合意を共産党が知ることとなりました。
しかし、たまたま共産党内部の改革主義者が、教条的な毛沢東主義からの脱却を目指していた時期であり、改革主義者は個人耕作制で食糧生産が激増した事実を称賛し、ついには、個人耕作制を認めて、1984年までに人民公社を解体してしまいます。
小崗の事例は、漸進的な改革主義者が状況をよく考慮し、個人の活力を活かすより良いシステムへの移行を進めることができる最良の事例として書かれています。
初めから補助金を当てにした振興策はほとんど失敗しています。また、個人の努力が反映されないきれいごとの活性化は続きません。状況をよく考慮できて、仲間をひっぱて行くリーダーがあって、はじめて、活性化が始まると思います。