2012/05/19

限界集落の真実

18日は京都までは電車で行きました。往復に3冊の本を読んでいます。

2冊目は、山下佑介著「限界集落の真実―過疎の村は消えるか?」でした。
マスメディアでの扱いから、限界集落はいずれ消えていく集落という否定的なイメージが強くありますが、著者は全国を調査したデータをもとに、まだ高齢化が行き詰まって集落が消滅する事態にまでは至っていないと否定しています。

むしろ、危機をあおりたて、過疎対策としてハード整備や補助金の問題に矮小化してきたこれまでの過疎政策のあり様が問題であるとしています。


過疎地の住民も、長期にわたって補助金行政・メニュー行政に慣らされてきたため、「役場は何をしてくれるのか」としか話ができないようになっているが、こうした根本のところからの発想の転換が必要であり、集落の外や雲の上でなく、限界集落とされるその場所から発する再生論を構想しなければならないと訴えています。私もその通りだと思います。

限界集落対策は坂の上の雲を見るのではなく、集落に関わる人々が今何を考え、どんな行動をし、どこを目指しているのかを起点として考えていくべきですが、そのためには、行政が現場をよりよく知り、現場とつながりを持つ必要があります。

合併しなかった過疎自治体では、過疎債を返す体力もなくなり、有利であっても借りれないところもできています(京丹後市も、交付税の特例が切れると厳しい財政となります。)が、強い危機感がよい意味での意識変化を生みだすきっかけとなり、行政の職員が動き、お金をかけずに手間暇をかけて地域の再生に取り組み始めているところもあるとのことです。繰り返しますが、本書に書かれているように現場を起点に変わっていく必要があります。

他にも、深谷地区活性化委員会での実践を通して、地域再生を始めるにあたって「自分たちが良く見えること」は、欠かせない重要な認識だとも書いています。研修で外へ出ることは、同時に、自分たちを再認識することにもなり、やはり必要です。

また、著者は、「中心にいる人ほど、周辺が見えない構造があり、全体が見えないまま、思い込みから行う実践が、破滅に導くことがありうると思うからだ。不理解から来る破壊的作用。実際、既にこの二十年ほど、我々はそれをどれだけ日本各地で見たことだろう」と指摘していますが、この中心とは、地方から見た霞が関というだけでなく、合併市町村における周辺と中心の関係も同じであるとしています。

そして、「中心の側からは、周辺が見えない。それに対して、周辺は全てを見通している」とも指摘していますが、今回選挙において多くの地域を歩き、多くの方と接してみて、全くその通りで、関係を新しくつくり直すために行政が動くことが必要だと思います。