(パート1)より続く…
職住一致のときにはしっかり機能していた「家業」が無くなり、そして家と職業を表す呼び名として使われてきた屋号が昔の記憶でしかなくなり始めると同時に、「家」の役割は大きく変わってきています。
「家」が代々引き継いできたその家の「家業」がなくなれば、「家」は解体の方向に進みます。昔から生きていくうえで最も必要なことは食べることであり、そのために収入を得ることでした。
丹後においては、昭和30年頃からのガチャマン景気と呼ばれた絹織物の最盛期となり、昭和40年代前半には、事業所数は1万を超える規模となり、3万台を超える織機が稼働していました。(昭和36年に8千台だった織機が急激に増えています。)そして、かつては地域のどこからも織物を織る機音が聞こえていましたが、その頃からすでに、人口減少は始まっています。
そして、賃機の急増により、他の産業(製造業)を誘致する活動は熱心になされていません。
昭和41年の大阪府立大学・庄谷怜子教授の「農村家内労働者と公的扶助~農村における貧困の一形態~」は、丹後地方における賃機増加の社会経済的背景を調査・研究したものですが、この研究を読むまでは、ガチャマン景気を過大評価していました。
この調査・研究によると、丹後地方において機織(賃機)が急激に増加したのは、西陣側の要因もありますが、日本経済の高度成長にともなう農業と工業の所得格差拡大による山間部からの農家離村と、農業では食べていけなくなった零細農家層の兼業化の高まりと、農業技術の向上による投下労働時間の減少により潜在失業化した家族の過剰労働力が、都市へ雇用労働力として移動せず、家内労働力により営まれる零細賃機の形態を選択したことによります。これには昭和33年頃から行政が機業導入政策を進めたことも一因としてあげられます。
当時は、田1町歩機1台といわれており、農業収入に比べて機業収入の有利性はあったようですが、西陣に比べると加工賃単価は低く、生産過剰によるたて・ぬき待ち、難引き、休機などと不安定なものであり、さらに賃機導入時の借入金返済のために、1円でも多く、1時間でも多くと働きまくっており、「機の仕事は厚かましい」と多くの人が言っていたようです。
機をはじめた人の多くは「機をはじめて暮しが楽になった」と答えていますが、一方で「仕事の負担が重くなった」とも答え、実際、昭和41年から生産調整のため時間制限が始められましたが、それでも朝6時から夜7時までの13時間労働となっており、当時の聞き取り調査では、疲労と不満の声が多くあります。
一般的には、長時間労働と、兼業労働を強いられ、一家総働きの体制をとって総所得の水準を確保していますが、一方で、丹後地域で繊維産業への依存度が高まるなかで、それ以外の産業への就業機会がなく、高校進学率の上昇とともに、一定数の若年層が恒常的に流出しています。
また、親の長時間労働とともに、機織りの騒音が、教育上の問題として取り上げられています。
保母(保育士)の聞き取りから、仕事に手いっぱいで基本的なルールがしつけられていない傾向があり、保育内容の程度の高い保育所の整備の必要性が指摘されています。また、校長からの聞き取りでは、一般的に機業兼業農家が増えることによって学力差が開く傾向にあり、こども達は、騒音と繁忙の家を出て、一方は塾へ、他方は非行的動向へ歩む傾向を示しており、昭和40年府警少年課の調べでは、機業の中心地で商取引も多く、繁華街もたくさんある網野町が不良発生状況第2位となっています。
丹後では、賃機の普及により多くの家庭で一家総働きで「家」としての総所得の水準を確保しましたが、繊維産業の衰退とともに、「家内工業」は激減しています。
(パート3へ続く)