昨夜は、太刀保存会こぶし固めでしたが、こぶしは固まることなく終わりました。秋祭りに向けて(太刀保存会役員会)にも書きこんだように、昨年、三役・主任会議、役員会と手続きを踏みながら女の子の祭りへの参加を進めてきました。
女の子の参加を進めた背景には、少子化のなかで、早晩、男の子だけではやっていけなくなることが見えていることと、地域の祭りを継続していくためには、(中・高生含めた)若年層の参加者を増やさなければならず、そのためには早めの取り組みが必要だという強い危機感からでした。
提案に対して異論がなかったため、一定危機感の共有は出来ている。将来も祭りが継続していくことへの認識の共有が進みつつあると考えていましたが、昨晩、そうではないことが良くわかりました。
他の祭りを調べるなかでは、人手不足を理由にして女性の進出は進んでおり、女性が参加するなかで活気を維持している事例も多くあります。反対に祭りが衰退すれば、地域の維持にも大きくマイナスになっていきます。
振り返って考えてみましたが、提案した経緯からして、私が全ての責任を負って、理解を求めながら前に進めるしかないというのが結論です。
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私は、祭りへの女人禁制的な考えにこだわるべきではないと考えています。
祭りへの女人禁制は日本の歴史のなかでは比較的新しいことで、「古事記」には女性が祭りに参加している記述があり、橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)では、弥生時代の祭祀を復元展示していますが、その主催者もやはり女性になっています。卑弥呼も『魏志』倭人伝に「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とあり、古代の日本では、女性は神聖であり、神霊が女性に憑依すると広く信じられており、神を祭る高い地位を女性が占めていました。
西口順子著「中世の女性と仏教」によると、仏教伝来後も、女性が長く祭祀を担っていたという伝統があったため、尼僧が多くおり、尼は神祀りする巫女と同じ役割を果たしたと考えられています。また、奈良時代に入って、聖武天皇が全国に建てたのは、国分寺と国分尼寺です。
男尊女卑の流れに変わっていったのは、室町時代以降であり、そこから見いだされるのは、国家祭祀にかかわって女性排除が展開していく様相です。