著者の二宮康裕さんは二宮金次郎の一族の二宮本家の生まれで、中学校教員を経て二宮金次郎の研究に専念しています。
著者は、これまで書かれた「二宮金次郎」に関する著作が、二宮金次郎が記した文献や一次資料を調べずに、富田高慶や福住正兄などの弟子が二宮金次郎の死後に書いた著作を資料としたため、装飾され美化されてきたことから、それを排して、直接残された膨大な資料に当たることにより、初めて「二宮金次郎」の実像を提示しています。
明治13年、弟子の高田高慶が書いた「報徳記」と「報徳論」が明治天皇に献上されます。このうち「報徳論(思想)」については却下されますが、「報徳記」は明治政府が求めていた「苦難に耐え、成果を上げる農民像。勤勉で、親孝行な農村の模範的少年」として、国定修身教科書に取り上げられます。
そして、明治の文豪・幸田露伴がその生き方に感動して尊敬する人物として「二宮尊徳翁」を著した際に、古典を参考にして「薪を背負いながら書を読む少年」の姿が書かれます。
農村再建と「自立による生活の安定」を求めた業績や思想は支配層にとって危険であるとして無視されますが、二宮金次郎の本意でない形で勤勉・孝行な少年として国民統制のための道具の一つとして政治的に利用されています。