政治経済学には合理的無知という概念があります。
多くの人は、仕事や生活、趣味などで、自分にとって有益な情報を得たり楽しむために時間やお金を使い、特に関心の高い分野については、しっかり評価もできます。
しかし、時間は無限に与えられてはいないので、政治や行政についてはよく知っていても知らなくても、有権者として選挙で行使できるのは一票に限られていているため、時間やお金を使う気になりません。
つまり、合理的無知とは、合理的に選択した結果として、政治や行政に対して無知であるということを現実の一側面として表しています。選挙においても、十分な政治知識を持って最良の政党や候補者を選出しているわけではありません。有権者は無能ではなく無知なのです。
先日の朝日新聞ジャーナリスト学校においても、この合理的無知という概念を含めて話しましたが、誰もが政治に関心を持っているわけでもないし、難しい話を聞こうという努力をしない人がほとんどだけれども、世の中は単純ではなく、複雑であるということを理解して、ポピュリズムを警戒してもらわなければなりません。
小泉さん以降、ワンフレーズのわかりやすさ、訴えやすさが受けていますが、イシューが単純化されてきたことで、政治を専門として扱う政治家においても全体像が見えなくなっている、見ようとしなくなっている人が増えているのではないかと懸念しています。
ところで、スペインの哲学者オルテガは、著書「大衆の反逆」のなかで、専門家といわれている人々こそが、実は最もやっかいな大衆だと書いてており、彼らが狭い専門知識しか持たないのに、広大な領域についても、あたかも幅広く専門知識があるかのように振る舞い、人々の要求をくみ上げるだけで、自らあらたな価値を提示しようとしない、極めて長期的展望に乏しい専門家といわれる人々の意見を安易に聴いて信じる危険性を指摘しています。
政治の専門家である政治家は選挙で当選しなければただの人になります。政治家であり続けるために合理的に考えて行動し、選挙に勝つためのイシューに取り組んでます。有権者に受けが悪い正論を述べることよりも、要求をくみ上げるだけで、得票を増やすために行動し、時間とお金を使っています。
つまり、最近の日本においては、有権者も多くの政治家も、無能なのではなく、合理的に選択した結果として無知の状況にあり、そこからも閉塞感が広がっているのではないかと考えています。
この閉塞感を打ち破るためには、誰もが知る努力をしなければならないと考えているのですが・・・・