2011/11/17

電車のなかで読んだ本他

  少し日にちが開いてしまいましたが、先日の東京での研修の行き帰りに電車のなかで読んだ本を取り上げます。

  「高齢者医療難民」は、介護療養病床の必要性と、後期高齢者医療制度の問題点、社会保障費削減政策の誤りを指摘しており、財政再建問題のなかで並行的に議論されている限り、現場を反映し得ないし、政治の責任においてヨーロッパ並みの負担増を求めた税制の抜本改革なくしては、保険制度が成り立たないことがかかれています。

  「信州の福祉暴走族」は、制度の網の目から漏れてしまう人へのサービスをしたいと、小さな民家を借りて始められた「宅老所かいご家」の5年間の歩みが書かれています。一人ひとりの利用者への的確なサービスの提供を基軸に据えて、共生ケアも含めた小回りの利くサービスを行っていますが、「かいご家代表」の車イスでの介護には驚くと共に、熱意のすごさを感じました。

 「痴呆老人は何を見ているか」は、認知症の病理について理解を深めたいと思って手に取った本ですが、筆者は「認知症」という表現が、痴呆老人への誤ったマイナスイメージを背景にした ラベルの張り替えにすぎず、「認知症」と表現することによって、世間の誤った認識を改善させる効果はないとして、あえて「痴呆老人」という表現を使い、多くの患者に接するなかでその病理に迫るだけでなく、痴呆における人とのつながりの喪失という観点から現代の人間心理の病理や「ひきこもり」などとの関連について分析しています。

 印象に強く残ったところを引用します。

以下引用・・・・・・・・・・・

 エルウィン・べルツ(明治9年から26年間東大医学部の教師)は、日本びいきでその文化を尊重し、西洋の文化をそのまま植え付けるのに慎重でした。しかし、彼が会った日本のエリートたちの態度にびっくりしています。

 「ところが―なんと不思議なことには―現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人はそれを恥じてさえいます。『いや、何もかもすっかり野蛮なものでした』私に言明した者があるかと思うと、またある者は、私が日本の歴史について質問した時、きっぱりと、『我々には歴史はありません、我々の歴史は今から始まるのです』と断言しました。なかには、そんな質問に戸惑いの苦笑を浮かべていましたが、私が本心から興味を持っていることに気がついて、ようやく態度を改めるものもありました。」

 残念ながら現在でも、明治のエリート達の亜流と末裔が日本には満ちています。「つながりの自己」も「つながりの倫理意識」も、江戸時代という完全な閉鎖社会での生存を通じて完成させられました。もし江戸時代の日本が、完全な閉鎖系社会での優れた「適応」を実証し代表する者ならば、「封建的」とであるからと、戦後何の価値もないかの如く捨てられてしまった我々先祖たちの思想や生存戦略に込められた知恵を学び直す必要がありましよう。

・・・・・・・・・・・・・引用終わり


 もう1冊の「社会保障の政策転換」は慶応大学の権丈教授の著作で、以下の4冊を含め、社会保障政策を勉強するうえでたいへん参考になりました。

 これまでに、セミナー等で2回権丈教授の講演を聞きましたが、しっかりデータを踏まえたものであり、政策にとって都合の悪い事実が多くは隠されていることやマスコミの無責任さがよくわかりました。権丈教授の著作もわかりやすいものです。ぜひ読まれることをお勧めしますが、権丈教授のホームページhttp://kenjoh.com/をまずご覧ください。